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説明責任の濫用をやめよ

森本 紀行

HCアセットマネジメント株式会社
代表取締役社長

 説明責任とは何か。そもそも、説明が可能であるとはどういうことか。例えば趣味や好みについて、なぜそれが好きなのかを説明することは、不可能である。なぜ不可能かというと、好きなものは理由なく好きだからである。故に、説明が可能であるとは、理由が存在するということでなければならない。

 では、説明責任を果たすとは、理由を開示することだろうか。啼くカラスに対して、啼く理由についての説明責任を課すことは可能である。しかし、その回答が「可愛い七つの子があるからよ」ということでは、説明責任が果たされたことにならないであろう。

 なぜなら、第一に、回答の意味が分からない。7歳のカラスは子ではなかろうし、7羽の雛を同時に育てるカラスというのも考えにくい。第二に、可愛いという心情の吐露は、合理性を欠いたものとして受け入れ難い。説明責任を果たすとは、合理的な理由をもって回答することでなければならないのだ。

 では、究極の問いとして、合理的な理由をもって説明可能なことは、説明責任を果たしたことによって正当化されるのであろうか。そうならば、説明責任を問うことにより、より本質的な結果責任の所在を不明瞭にしてしまう可能性はないのであろうか。

 原理的に、行為はその結果の合理的な説明の可能性によってではなく、その結果の内容によって社会的評価を受けるべきではないのか。説明責任よりも、結果責任ではないのか。

カラスの勝手である

 1980年頃にザ・ドリフターズの志村けん氏は、「カラス、なぜ啼くの、カラスの勝手でしょ」という替歌を作り、一世を風靡した。この替歌は、説明責任と結果責任の関係を、明瞭にかつ極めて分かりやすく示し、説明責任の射程の限界を明確に画すものとして、非常に有益である。

 ギャアギャア啼いてうるさいカラスについて、子を思う気持ちで説明されてしまうと、それをもって説明責任が果たされたことにならないとしても、石をもって追うことは、心理的に困難となる。ところが、説明責任が堂々と放棄され、勝手でしょという結果責任の全面的引き受けで対抗されれば、石をもって追うどころか、急所を直撃することに何らの躊躇を必要としないわけである。

 つまり、説明を放棄することは、結果責任の全面的引き受けであり、潔く、また非常に勇気のいることなのである。もちろん、何をしようが勝手である、結果をみろ、という態度は傲慢である。しかし、確信にみちた行為、結果責任を全面的に引き受けた行為は、常に傲慢なものであろう。

決断と革新

 そもそも、ある行為がなされたとき、その行為者は常に結果責任を負うはずである。これは、普遍的な原理である。ところが、行為の結果は事前には完全に予測し得ないので、その結果責任を行為者に全面的に課すことについては、公正公平ではない事態も想定される。

 そこで、現実の人間社会では、悪意や過失の不存在を代表例に、合理的な理由によって行為の正当性が証明できるときは、その限りにおいて結果について免責とする制度が広範に導入されているわけである。説明責任とは、実は、この行為の合理性や正当性を説明する義務のことであって、行為者は、この義務を果たせないとき結果責任を負うのである。

 ところが、政治においても企業経営においても、いや、人間が生きるということ自体において、結果を合理的に予測し得ない状況のなかで、即ち行為を正当化する合理的根拠がないなかで、行為の意思決定をしなければならないときがある。これが決断である。決断は合理的根拠を超える。

 企業経営において、経営者の仕事とは何であるかといえば、このような意味での決断にあることはいうまでもない。経験則から知られる合理性や蓋然性に基づく意思決定は、現場の判断であって、経営上層まで上がることはあり得ないのである。過去からの連続性に基づいては判断できないことについて決断することこそ、経営者の最も重要な役割である。

 過去の連続を超えることを革新というのならば、革新こそが経営者の役割といわざるを得ない。革新は過去の外挿の上にはないから、革新は、常に決断である。このことは、政治においてはもっと明瞭である。一国の指導者の仕事は、国家のあり方を変えること、国家の革新である。革新が問題となるとき、説明責任など果たし得ないことは、説明責任の定義により自明である。

説明責任でも結果責任でもない共同責任

 革新をもたらす決断において、説明責任を果たし得ないということは、結果責任を全面的に引き受けることである。経営者にしろ政治の指導者にしろ、まさに、この責任の引き受けこそが本質的な職責であろう。しかし、ここで、結果責任を論じることに何の意味があろうか。国家にしろ企業にしろ、指導者の冒険に将来を託すことはできないのである。

 決断においては、また、革新においては、指導者に対して支持を表明するのか、不支持を表明するのか、どちらかしかない。逆に、指導者の責任として、支持を求める説得をしなくてはならない。定義により、その説得は合理的説明を超えて、情熱やロマン性を帯びるであろう。

 かといって、説得は、煽動でも誘惑でも幻惑でもない。それらは危険である。今まさに、米国大統領選挙の帰趨で懸念されるように。説得は、支持するものと共鳴し、価値観の共有を成立させることである。企業経営者と株主や従業員等のステークホルダーとの関係、国家の指導者と国民との関係は、対立関係ではなく協働関係であり、共同参画関係である。いわば、価値共同体としてのパートナーシップである。

 他人の結果責任を問うことは、自己の責任を認めないことではないのか。他人の説明責任を問うことは、自己を高い地位に置いたうえでの詰問ではないのか。パートナーは、共同パートナーに対し、結果責任も説明責任も求め得ない。共同責任だからである。そこには、常に自分自身の責任があるのだ。ならば、あり得ることは、詰問ではなく対話である。

 この対話原則こそ、日本版スチュワードシップ・コードや、コーポレートガバナンス・コードの裏にあるものでなければならないのである。

2016年4月15日

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